ジャッキー・ロビンソンのプラーク(2025年イチロー氏の野球殿堂入りの予習)

アメリカ野球殿堂博物館の1Fのギャラリーには野球殿堂入りしたレジェンド達のプラークが並んでいますが、ジャッキー・ロビンソン氏のプラークは2つあります。なぜでしょうか?

最初のプラーク

1962年7月23日、ロビンソン氏が殿堂入りした日に公開されたプラークには、1947年に人種の壁を打ち破った野球史、彼が果たした歴史的に重要な役割について40 年以上もの間まったく触れられていませんでした。以下プラークに記載されている原文です。

ジャック・ルーズベルト・ロビンソン

ブルックリン N.L. 1947~1956
1949 年N.L. 首位打者。二塁手として150試合以上出場し最高の守備率 .992を保持。1947年と1949年に盗塁数でN.L. 首位。1949 年に最優秀選手。生涯打率 .311。1951年に二塁手による最多ダブルプレーの共同記録保持者 (137 回)。1949 - 50 - 51 - 52 年に二塁手によるダブルプレー数でトップ。

アメリカのスポーツ界の歴史を変えた人物の記念碑に書かれている説明としてはかなり物足りない内容です。なぜでしょうか?

それはロビンソン自身の願いです。

「人種差別を破ったという事実ではなく、野球の能力だけで評価されることを願っている」と、ロビンソン氏は1962年のBBWAA殿堂入り選挙の前にニューヨーク・デイリー・ニュースのコラムニスト、ディック・ヤングに語っています。後にロビンソン氏は、「自身がもたらした歴史的な変化の事実は多少なりとも投票の要因になるはずだ」と認めた。おそらくロビンソン氏は同じ理由で一部の有権者が投票に反対する可能性があることも痛感していたのかもしれません。

投票者がロビンソン氏のコメントをどのように評価したかは知り得ませんが、 160人中124 人(77.5% ) がロビンソン氏に投票しました。

Pee Wee Reese

ドジャースでチーム・メイトだったPee Wee Reese氏は「ジャッキーが野球場で活躍するのを見た人なら、そんなことは思いもよらないと思う」と語っています。ロビンソン氏の考えを尊重し野球殿堂博物館のプラークの記述従いました。彼が野球界だけでなく、スポーツ界全体、そしてアメリカ社会全体に与えた多大な影響はアメリカ国中の誰もが認識していましたが、クーパーズタウンに掲げられたプラークにはその功績が刻まれませんでした。

 

 

 

 

 

偉大なレジェンドの経歴の説明が不足しているケースはベーブ・ルース氏も同様です。プラークでは「野球史上最大の集客力」と称賛していますが、驚異的な記録については714本のホームランを「獲得した」と述べる以外はほとんど記述されていません。

マリアーノ・リベラ氏のプラーク

しかし時間が経過し、多くの元選手が殿堂入りするにつれ、プラークのの銘文は進化し始めました。野球界に影響を及ぼした経歴、より詳細な記録に加え、マリアノ・リベラ氏の「サンドマン」やアンドレ・ドーソン氏の「ホーク」といった「ニックネーム」も記載されるようになりました。

そして1998年、ロビンソン氏がブルックリンでデビューしてから間もなくアメリカン・リーグのクリーブランドに入団したラリー・ドビー氏が野球殿堂入りしました。彼の殿堂入りプラーク最後の言葉は、「ドビー氏が1947年にアメリカン・リーグを統合した」ことを讃えています。ロビンソン氏のプラークの記述変更の議論が始まったのは、ドビー氏の殿堂入りから少し経過してからでした。殿堂職員は数十年にわたり、ロビンソン氏のプラークに記述の内容について頻繁に質問されていました。彼の名声と人気を考えると歴史的な事実はギャラリーの見どころの 1つなのです。

「ジャッキー・ロビンソン氏が選手として、また人間としてどのような役割を果たしたかを、子供たちに説明しようとした親たちは、彼のプラークを見てもそれができなかった」と、殿堂の元会長ジェフ・アイデルソン氏はコメントしています。この違和感はクーパーズタウンを訪れたほぼ全員が感じたことでしょう。そしてジャッキーの未亡人であるレイチェル・ロビンソン氏は、40年前の夫の希望に反することではありますが、今がプラークの記述を更新に適した時期であることを悟ったようです。

2つ目のプラーク

レイチェル氏は、野球殿堂の副理事長でもある元シンシナティ・レッズの偉大な選手、ジョー・モーガン氏に連絡を取りこの計画は動き出しました。銘文は慎重に検討され2008年6月ギャラリー内に新しいプラークが公開されました。以下プラークに記載されている原文です。

ジャック・ルーズベルト・ロビンソン 「ジャッキー」

ニューファンドランド州ブルックリン、1947-1956
驚異的な能力を持ち、衝撃的なプレースタイルで名高い選手。 10シーズン以上で打率.311、6回100得点以上を記録し、オールスターに6回選出され、ブルックリンを6回の優勝と1955年にはワールド・シリーズ優勝に導いた。1947年の新人王、1949年にはリーグ最高の打率.342、37盗塁でナショナルリーグMVPに選ばれた。二塁手としてダブルプレーを4回記録し、19回の盗塁を成功させた。1947年、厳しい逆境に直面しながらも現代のメジャーリーグに溶け込んだ際、並外れた勇気と落ち着きを示した。

フルネームの下に「ジャッキー」と記されていること、より力強い冒頭の文章、詳細な記録の紹介、この碑文はロビンソンの傑出したキャリアを深く掘り下げています。アイデルソン氏によりますと、ロビンソン氏の歴史的影響について正しく述べた内容は、「ジャッキーが殿堂入りした経緯と理由に対する彼の願いを尊重する方法として」意図的に最後に記載したと言います。

「ジャックの人生の非常に重要な部分が今日認められた」「彼が言ったように…このような名誉を受ける幸運に恵まれた私たちは、それを他の人を助けるために使わなければなりません。若者たちがジャックの新しい殿堂入りのプラークを見ることで、野球の記録を超えてジャックが野球界の歴史的分岐点に関わったこと、すべてのことを受け入れるだろう。」と、このプラークが初めて一般公開されたときレイチェル・ロビンソン氏は述べました。

レイチェルは続けて、「ジャッキーの当初の願いは崇高なものだったが、彼が野球界にもたらした最も重要な貢献がこのように認められるよう、彼は変化を受け入れ、感謝するだろう」と説明しました。

1962年から2008年までクーパーズタウンに掲げられていたオリジナルのプラークはニューヨーク市のジャッキー・ロビンソン博物館に貸出され展示されています。

2025年その野球殿堂博物館にメジャー球界に日本人野手の道を切り開いたイチロー氏のプラークが新たに掲示されるのは疑いがないと思います。その式典に現地で参加しイチロー氏の生のスピーチを聴くと同時に、ジャッキー・ロビンソン氏のプラークを鑑賞し、更にニューヨークのジャッキー・ロビンソン博物館に立ち寄りオリジナルのプラークに触れましょう。2025年は意を決してクーパースタウンに足を運んで頂きたいと思います。

(※このコラムはこちらの記事を参考にしました。)

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